砂糖菓子の弾丸

最近、桜庭一樹による「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」という小説を読んだ。小説を読むこと自体が大変久しぶりであったのも手伝ったのか、この小説の表現はどれもとっても美しく感じた。特に「砂糖菓子の弾丸」という表現が良かった。

「彼女はさしずめ、あれだね。”砂糖菓子の弾丸”だね」

「へ?」

「なぎさが撃ちたいのは実弾だろう?世の中にコミットする、直接的な力、実体のある力だ。だけどその子がのべつましくなし撃っているのは、空想的弾丸だ」

長い髪をかきあげて、友彦は楽しそうに微笑んだ。

…(中略)…

「その子は砂糖菓子を撃ちまくっているね。体内で溶けて消えてしまう、なぎさから見たらじつにつまらない弾丸だ。なぎさ・・・・・・」

——— 桜庭一樹「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」

「砂糖菓子の弾丸」

砂糖菓子の弾丸とは、本人が社会で生きていくために役に立つ直接的な力として行使しているものの、実際には役立たない行為を指した言葉である。本人は攻撃性のあるものとして撃っているが、それは砂糖菓子なので実際のところは攻撃性などない、というような比喩表現である。作中でなぎさは自衛隊に入隊することで生計を立てる「実弾」を撃ちたいところを、もずくは自分がクラゲだと周囲にまくし立てる「砂糖菓子の弾丸」を撃ちまくっている。これらのうち、どちらが世の中で生きていくのに、より役立つのだろうか。それがどうであれ、本人にとってはどちらも「撃っている」つまり世の中を生きていくために必死でやっているという意味では同じなのである。

この表現には心揺さぶられるものがある。表現の美しさもさながら、自分が生き抜いていくために必要な力とはなんなのか、考えさせられる側面がある。

何が「砂糖菓子の弾丸」で何が「実弾」なのか

撃っている弾丸が「砂糖菓子」なのか「鉛(=実弾)」なのかを決めるのは撃っている外野なのだが、現実にそれらをはっきりと区分けする事が出来るのだろうか。

このような事を考えたときに、例えば学校教育において学問が「実弾」として教え込まれ、これを撃つことをせずに遊びまくってるのは「砂糖菓子の弾丸」のように扱われる節があるように思える。しかし実際のところ、どちらも実弾である。社会的動物である人間にとって、人との関わりは社会に出てから実に重要な「実弾」である。仕事が中心になる生活において自分の好きな事を見つけること、またそれの継続的な楽しみ方を見つけることも生きていく上で欠かせない「実弾」である。それらは学問では会得することはできない。後者においても、程度の差こそあれ本人にとって重要な「弾丸」となり得るのだとも思わなくもない。

むしろこれらのみが「実弾」であると思い、それ以外など「砂糖菓子の弾丸」であると思い込む姿勢に足を救われる。生きていく上で重要な、自分を守るための「弾丸」が「実弾」である。他人が撃っている「砂糖菓子の弾丸」と馬鹿にしていたものが社会に出てから「実弾」に自己の認識の中で変わるときがある。自分から見れば「砂糖菓子の弾丸」が「実弾」に変わるわけだ。実に滑稽である。撃っているものが「砂糖菓子の弾丸」と捉えるのは常に外野なのだが、本当にそう断定できるのだろうか。

撃つという行為

ところで、本当に世の中に生きていく上で何ら役立たない「砂糖菓子の弾丸」を撃っているとしても、それはそれで価値ある行為なのではないかとも思える。「撃つ」という行為、つまり自らが世の中を生きていく上で必要と思っている行為に本気で取り組むその姿勢。これを失ってしまうと言う事は「砂糖菓子の弾丸」だろうと「実弾」であろうと、それを身につける力がなくなっていき終いにはこの社会からドロップアウトすることになる。弾丸を撃つということは、世の中に対して、生きてやるぞという闘志を持っているということである。その闘志を失ったとき、空しく敗れ去るのみである。「砂糖菓子の弾丸」だろうとそれを「実弾」と思い「撃つ」という姿勢を忘れてはならないだろう。