自分はオフィスの清掃をバイトでやっているのだが、1年半ほど前に近くを通りかかった人から「何でこんな底辺みたいな仕事をしているの」と言われたことがある。あまりに唐突だったので何とも言えなかったのだが、答えを聞かずにその人は去って行ってしまった。未だにこの出来事が忘れられないのだが、単に不快だったと言うよりはその「底辺みたいな仕事」って何だろうと考えていた。その人曰く自分がやっていたような清掃に類するものであると思うのだが、何をもって「底辺」といっているのだろうかと不思議でたまらなかった。社会貢献性が乏しいから?賃金が低いから?誰でもできるから?
自分から言わせてみれば、いくら考えても底辺の職など存在しない。
職業自体に上下なんてない
ある職に就いていることによって偉いということがあるだろうか。いや、ある職に就いているだけで何か社会に便益がもたらされることはない。その職に就き、行う仕事が誰かの役に立つから便益をもたらす。だからこそ人に感謝され、偉いのである。つまり職に就いていることが価値を生むのではなく、行う仕事が価値を生む。どんな職でも何らかの仕事をするだろう。そしてそれは価値を生む。これはどんな職でも同じだ。職業自体に上下なんてない。そこについているから地位が高い・低いなんて事は無いのではないのか。
では、仕事の生み出す価値に上下はあるのか。
仕事の価値
価値が発生するのは仕事の受け手側、お客さんの側である。どんな仕事でも必要としている人が大抵いる。そしてその仕事の価値の感じ方は受け手側にとって大きく異なるものである。ある人にとっては価値のない仕事でも、それが何モノにも代えがたい価値を感じる人もいる。もちろん、多くの人にとって必要だったり、多くの人にとって希少性が高く価値を大きく感じる仕事というのはたしかにある。ただ個人レベルで見れば仕事の優劣は個人で大きく異なるモノであって優劣を付けることは難しいのではないか。
また、実は大きな便益をもたらしているが価値を感じにくい仕事もあるだろう。メンテナンス系・インフラ系の仕事がそうだろう。それはよく空気に例えられる。普段は何も感じないがなければ一大事である。何も感じないように維持されていることこそに大きな価値があるのだが、普段この価値を意識して感じていない人も多いのではないか。しかし、確実に我々に便益をもたらしており、大きな価値がある。
賃金の高さが価値の高さか
お金は希少性に連動した指標とも捉えられる。つまり賃金はその職に就く人の希少性を表すことになるのかもしれない。しかし、現実にそうなっているだろうか。というのも賃金という数値は人が決めている。仕事の価値というのは個人で大きく変わりうるものだし、職業間の希少性を正確に賃金に反映するためにはその職業、仕事に精通している必要がある。全ての職業や仕事を熟知している人はいない。結果として希少性をそのまま反映するように賃金を決めることは難しいはずだ。実際、社会にとって必要で人数も不足しているが賃金が低いことが問題となっている職がいくつもある。
底辺の職など存在しない
賃金が高い職は大抵なるのが難しい。その職に就くのに大変な努力をしているだろう。その努力は間違いなく素晴らしいものである。だが、だからといってその職につくことが偉いのか。その職で行う仕事が他の職の仕事より価値が高いとなぜ根拠を持って言えるのだろうか。職自体ではなく仕事が価値を生む。だが、仕事の価値は人によって違う。賃金は人が決めている以上は正確に職や仕事の希少性を表すものとは言い難い。では「底辺の職」とは一体何なんだろうか。そんなものは存在しないのではないのか。
職業の上下を気にするのではなく、自分が行っている仕事が価値を生んでいるか。そこに目を向けた方が良いのではないか。自分より下だと思っている職の仕事が自分の仕事の価値を大きく上回っているという事は無いと言い切れるのだろうか。
あとがき
自分はたかが学生バイトなのだが、一緒に清掃をしている人の中には驚くようなこだわりを持って仕事をしている人もいる。清掃というのは綺麗な状態を維持する仕事で、普段はその価値を感じにくいものである。むしろ汚くなってしまったときにいつもと違う状態となり、気づきやすくなる。清掃をしている人に向かって底辺なんという野次を飛ばされた時、清掃をしている人全員に対してそういう認識なのかと感じてもの悲しくなった。とてもではないが、そんな野次を飛ばされるにふさわしくない、仕事熱心な人を知っているからだ。どんな仕事でも熱心に取り組んでいる人がいる。そしてその価値というのは人によって大きく違う。この事を忘れたくないと思った。