流れを止めて振り返る

文を書くことに意味はあるんだろうか。それを見つけるための試行作業と思ってみてもいいかもしれない。 今就活の真っ最中に居ながらにして迷ってしまい、やるべきことはあるのに何もやれずかえって暇な状態になってしまっている。「暇だけど暇じゃない」状態だ。そもそも、暇だと思うなら暇なはずなのだが、暇じゃないはずだと思うのは自分の置かれている環境からの圧力とも考えられるかもしれない。自分が暇かどうかぐらい自分で決められないのだろうか。うんざりする。

就活について書くこと

冒頭の文から察するとおり、就活について、もっと広く捉えて今置かれている「分岐点」についての所感を残しておきたい。実は就活という言葉自体が大嫌いなので自分でそう捉えている節があるのだが、それはまた別のお話だ。実はブログはもちろん、自分用の日記ですらあえて就活について詳細に記録するのを避けてきた。それは単に自分の負の感情を出さざるを得ないからである。文として残すと、自分の所感を詳細に記録できる。その過程で自分がなんとなく思っていることが明確になる。それが楽しい感情であればよいのだが、そんな時ばかりではない。就活においては「楽しいとき」の方が圧倒的に少ないのだ。 あとは自分自身のプライドや懸念が邪魔をしている。結果を言えば、自分としては就活は全くうまくいっていない。そのこと自体を他人に知られるのが恥ずかしかった。また、自分が受ける会社の人事の方に見られて悪い評価を付けられる可能性があるのではないかという懸念があった。だが、そういったものがどうでも良く感じ始めた。他人に自分のことがどう思われた所でなんなんだろうか。就職に影響があるとしてなんなんだろうか。その程度の事で自分の思っていることすら吐き出せないんだろうか。そんな風に他人の目を気にして自分を偽ることに気持ち悪さを覚えたのだった。 そういえば、最近見たアニメで、久しぶりに気に入ったものがあった。その後、その作品の同系列作品を見たのだが、全く面白くなかった。その違いは人間臭さだった。前者の主人公はポジティブすぎるわけでもなくネガティブすぎるわけでもなく、どっちの状態もあった。我々の生活もそうだろう。良いときばかりではない。良いときばかりを押し出すのでなく、悪いときも表現する。それを見せられて良いなと感じたんだという事だと思う。良い時ばかりを発信するのは、面白みもないし人間らしさがない。

大人への過渡期を痛感

大学時代は大人への過渡期とよく言われるが、それを実感する機会が少なかった。だが、就活期間、というよりはこのM1〜M2にかけての期間では、今までが嘘であったかのように強烈に痛感させられる。それは自分と繋がりの深い他者の状況の変化が激しいためである。今の時代、大学に進学する人は多くとも、大学院まで行く人は少ない。自分の友達や後輩も大学までで卒業し、社会人となる人が多い。皆立派に働いている。そしてその中には同棲や、結婚を見据えて付き合う人も居る。ついこの間まで同じ「学生」という社会に育まれる立場だった人が、しっかり社会の一員となって活躍している様をみると、ものすごく大人になってしまったように感じる。まるで自分とは全然違う世界の人みたいな認識になるわけである。そういった人たちが自分の友達、あるいは後輩であることを考えると、大人になることがすぐそこまで迫ってきている事を痛感するのであった。そして自分との対比で、劣等感が生まれるのを避ける事が出来ない。大学院に進むという事は、自分と同期、さらに自分の一個下のそのような変化を見ることになる。その中で、まだ社会に何の価値ももたらせない、育まれる立場の自分自身をどう感じるか。これは人によるのだろうが、自分のように劣等感を感じるような人は、大学院への進学はこのような事が起こるという覚悟を持つ必要がある。自分にはその認識が足りなかった。

やりたい事ができれば

就活とわざわざくくるのもどうかと思うが、就活に際してどのような仕事・会社を選ぶかという問題はかなり悩ましい。一般には業界を絞り、会社を絞り、応募する。まぁこういう流れだろう。だがこの流れは会社を選ぶという思考である。自分としては業界・会社を選ぶというよりは仕事を選びたいと考えている。具体的には「情報システムを企画、立案、提案して開発したい」と考えている。開発作業もできれば自分でする機会が欲しい。こういう仕事はIT業界だけのように思うかもしれないが、そんな事は無い。いまやITを売り物にしない業界の会社もそういった事をする人を内部に抱えている。新卒についても「職種別採用」という形で採用をしようとしている会社もある。なので、会社を選ぶと言ってもあらゆる業界の会社が対象となりうる。じゃあどう会社を選んだらよいかと考えると、自分のしたいことを仕事として任せて貰えそうな会社を探すという感じになる。だけど、実はこういう探し方は難しくて苦労している。 もちろん、やりたいことだけに囚われすぎるのも危険とは思う。仕事内容が魅力的そうであっても、給与が異常に低いとか、拘束時間が異常に長いとかだとさすがに嫌だなと思う。これはつまり、その仕事の生み出す価値が低いか、低く見られているとう事の証左であると思うからだ。中にはやりがいがあるんだから、給与なんて最低限で良いというようにすり込ませるような宗教みたいな所もあるらしいので、気をつけなければならない。このような事に気をつけたいとは思いつつも、やはりやりたい事が出来るというのが自分としては最も重視したいと考えている。

速く多くに価値はない

ちょっと前まで就活に関して嫌な焦燥感を絶えず感じていた。どこでも良いから速く内定を得たいという思いが強かった。Twitter等で内定を得た人を見ると、どうしても劣等感を感じずに居られなかった。そんな訳で行きたいという思いが強くない段階で面接を受けたりしたのだが、面接を通過しても、むしろ嫌に感じてしまった。このまま内定を得てなんとなく入社しても絶対に楽しくないだろうなという事を考えてしまう。行きたい所でもない会社の内定をどれだけ速く、どれだけ多く得た所で意味は無い。そう考えて、どれだけ遅くなっても行きたいと心から思える所の内定を得ようと最近は考えている。そうすると、嫌な焦燥感というのはあまり感じなくなってきた。まぁ全く焦らないという訳にもいかないが・・・。

自分の将来を決める一手

とにかく受けようと考えていた頃は、就活があまり自分の人生の中で影響が少ないような感じがしていた。今でもそう感じている部分がある。会社に入った所で自分がどう働くかは自分次第なんじゃないかと。どこの会社を選ぶかなんてそんな些細な問題じゃないと感じている節がある。実際、そういう面もあると思う。だから、とりあえずで就活を進めててもさして問題でないように思っていた。 だが、自分が置かれる環境の影響はやはり大きい。大学に関してもそうなのだが、何らかの組織に所属する以上はその影響は受ける。それは目に見えやすい形でも、見えにくい形でも実に様々な形でうける。そしてそれはなかなか自覚しにくいモノである。他の環境に属している人と比べて始めてく気づくなんてこともザラである。ましてや、会社なんてのは学校なんかよりはるかに長い時間属することになるわけで、やはり慎重になるべきだろう。

流れを止めて振り返る

流れるままに、周りの環境や圧力に押されて何となくで行動する。どうしてもそうなりがちである。日本人には特にそういった気質があるとよく言われる。自分もどうしてもそうなってしまうときが多い。だが、こと就活においてはそうしていると自分を見失う。流れを止めて、振り返る。そして流されてきたことを初めて自覚する。その上で、自分がどうしたいのかを改めて考え先へ進む。文を書くと、自分の考えがハッキリして自覚してこなかった「流れ」が見えてくる。これはやはり重要である。就活はまだ終わらない。その中でも自分を見失うことだけは絶対にしたくないと思う。